【書評】松下幸之助はなぜ成功したのか

●著者:江口克彦
1940年2月1日名古屋市生まれ故・松下幸之助氏の直弟子とも、側近ともいわれている。27歳でPHP研究所の秘書となり、依頼23年間ほとんど毎日毎晩、松下氏と語り合い直接指導を受けた、松下幸之助思想の伝承者であり継承者。1976年、36歳でPHP研究所の経営を任され、以後、34年の間に売上を9億円→250億円、利益を5~8%維持、社員300人を堅持、それまで30年間赤字続きの会社を内部留保ゼロから80億円にまで成長させた。

「哲学者」としての松下幸之助

本書は、松下電器(パナソニック)の経営ノウハウを書いた本でもなければ、
躍進のきっかけとなった製品開発や営業戦略、時代背景について書かれたものでもありません。

著者は、松下幸之助と23年にわたって行動をともにし、側近中の側近とも言われた、江口克彦氏。江口氏が間近に見た、松下幸之助の回顧録です。その豊富なエピソードは、松下幸之助の人間像と思想に迫ります。

松下幸之助には、「今太閤」、「経営の神様」など、いくつもの呼び名がありますが、
「哲学者」という一面はあまり語られません。しかし、江口氏は、松下幸之助の「人間について自ら考え抜き、本質を追求した、考察の日々」が、松下氏の人格を形作っていったと言い切ります。

和歌山の裕福な家系に生まれた幸之助でしたが、4歳のときに父親が米相場に手を出し失敗したことで、一家が没落します。10人いた家族は離散。それぞれが和歌山、大阪へ出て働かねばならず、自身は小学校を4年で中退し、9歳で丁稚奉公に出されます。

また10人いた両親兄姉は、幸之助が5歳のときに兄の一人が亡くなってから、26歳までに皆、結核で次々に亡くなっていきます。ときに1年で2人の葬式を出すということも2回あったそうです。
そして幸之助も20歳で肺尖カタル(結核の初期)を患い、当時は「結核即死」だったため、自らも覚悟します。

「途中、道々、血を吐いてな。たいしたことはなかったけどな、しかし、その血を見て、ついに来るものが来たと。これで終わりかなと、そう思ったわ」

家族の死に直面し、また自らの死を覚悟したとき、当然、「人生とは何か」「人間とは何か」を真剣に考えさせたことは想像に難くありません。松下氏は、死生観、いかに生きるかが土台にあり、生きていくための商売があり、そのあとで食べるために、生きるために商売を始めています。松下氏は、経営者である以前に哲学者でした。それはそのまま、松下氏の商売なり経営に大きな影響を与えることになります。

「弱さ」からの出発

貧しい幼少期を過ごし、学問がなく知識に頼れない。病弱で、健康な人と同じように自分で直接仕事ができない。実際に、94歳まで生涯病弱、寝たり置きたりの状態で、多くの時間を布団の上で過ごしていたほどです。ではどうして、ゼロから日本を代表するグローバル企業をつくることができたのでしょうか。

松下氏は、「人間は偉大である、王者である、ダイヤモンドを持った、偉大な存在なのだ」という独自の人間観をもっていました。社員、お客さん、道行く人に対しても、立派な人だ、偉大な能力を持った人なんだと考え方を根底にありました。だから、部下対しても意見を聞いてみよう、この人に仕事を任せてみようということになり、思い切った権限委譲をする。また試作品の打ち合わせ中にたまたまお茶くみにきた女性事務員に対しても「このテレビがいくらだったら買いたいと思うか」と素直に意見を求めることを自然にやる謙虚さがありました。

「衆知を集めて経営をしたのも、わしが学校を出ていなかったからやな。もし出ておれば、わしは人に訊ねるのも恥ずかしいと思うやろうし、あるいは聞く必要もないと思ったからもしれん。けど幸いにして、学校へ行ってないからね。そういうことであれば、人に訊ねる以外にないということになるわな。それで経営も商売も、人に訊ねながらやってきた。それがうまくいったんやな。そういうことを考えてくると、今日の、商売におけるわしの成功は、わし自身が凡人だったからなど言えるやろうな」

松下幸之助氏 談 126ページ
没後30年以上を経て、なおも生き続ける哲学

松下氏は、松下電器の成功が自分の力、努力によるものであるとは、まったく考えていませんでした。成功の理由は、「いい人が、自分の周りに自然に集まってきてくれたからだ」というのが口ぐせでした。

1933年には、世界的にも早い時期に事業部制をとりいれています。それは、身体が弱く直接に仕事をやることができなかったからです。

自分に代わって、部下の誰かに仕事をやってもらおうと考えているうちに、自然に、それぞれの製品別に事業部、いわば企業内企業をつくって経営をやってもらうことを思いついたそうです。

「身体が弱く働けないから人に動いてもらう」、「知識が乏しいからわかる人に訊ねに行く」、というように自分の能力を知り、限界を受け入れていことが、結果的に合理的な経営へと結びついていったのです。

松下幸之助さんと長年接していると、この人が果たして、ゼロから出発して世界的大企業を創った人なのだろうかと思う瞬間を、時折、感じさせることがありました。群を抜いて豊富な知識を持ち合わせているようにも見えない。特別に他を圧倒するような迫力のある風貌でもない。格別に話し方に長けているわけでもない。そればかりではありません。時に、気弱な、あまり自信のない表情が、その顔をよぎることもありました。

江口克彦氏 回顧 124ページ

人に訊ねたほうがいいと思うならば、素直に訊ねる。恵まれた才能がないのであれば、人一倍の熱意でことに当たる。病弱であるというなら、周囲の人たちに力を貸してくれと頼む。
自分の弱さを素直に諦観し、ひとつずつ積み重ねたことが、弱さを強さに、平凡を非凡に変えていったのです。

滾るような「熱意」

極小企業からスタートした松下電器は、当然、優秀な人材に恵まれていたとは言えませんでした。零細町工場に優秀な人材が集まってくるはずもありません。集まってくる人たちは、三流、四流といった人材です。
しかし松下氏は、そもそも能力をあまり重視していませんでした。

「能力は60点でいい。あとは熱意でいくらでも伸びる。けど尋常一様な熱ではあかんで」。

熱意のない人の能力は増すことはないが、熱意のある人の能力は、その熱意に比例して増していく。ということが松下氏の「人材観」でした。なので「60点の能力と、熱意」があるとみれば部下にどんどん大きな仕事を任せました。

なお松下氏は、何ごとおいてもこの「60」という数字を判断の目安にしていました。
そもそも100パーセント正しい判断をして、100パーセントの成果を出すことなどできるものではありません。
なので60パーセントの見通しが出たならば、実行すべきとも言っていました。
そして何よりも、実行することでまず自分で汗を流し、経験することから得た知恵を「本物」ととらえていました。

「塩の辛さ、砂糖の甘さというのは、何十回何百回教えられても本当にはわからんもんやろ。舐めてみて、初めてわかるもんや」

信頼されるリーダーとは、学歴がいいとか頭がいい云々以前に、どこかで仕事のコツをつかんでいます。それは塩の味を知っているということです。塩の講義は受けていなくても、塩の味は自分で味わっってよくわかっている。そういう人だろうと思います。

印象に残ったエピソード

①すべてが人々からのお預かりもの

ある日、松下氏と著者は、車で京都の料理屋へ食事に向かう。途中、松下氏が「この辺りは、わしの土地や。これから行く料理屋さんも、わしの店や」

さすが天下の松下さんだと驚く著者に、松下氏は続ける。
「もちろん、この辺りの土地も、これから行く料理屋さんも、わしのもんではない。けどな、そう考えたら愉快やで。自分は電器屋の仕事をやっておるから、土地の管理も料理屋も管理することはできん。そこで他の人にお願いして、面倒をみてもらっている。そう考えれば、きれいに使おうという心持ちになるわけや。自分の料理屋さんやから、代金は払わんでもええわね。けど今日のもてなしを思えば、それなりのご祝儀をわたしてあげんといかん。料理代はタダや。わたすのは、ご祝儀やと。どや、気分が大きくならんか、きみ」

松下氏の考えには、会社は公のもの、企業は公器である。天下のヒト、天下のモノ、天下のおカネを活用し、天下のヒトたち求めるものをつくる。人々からのお預かりものだから、公明正大に経営し、人々の期待に背くようなこと、不正なことをしてはならないという、公の意識があった。

②水道哲学

「いいものを、安く、たくさん」提供することによって、平和と幸福と繁栄を実現する。(後に”水道哲学”と称される)
ある日、松氏氏が道をあるいていると、通りすがりの人が道の端にある水道栓をひねって、存分に水を飲んでいるいる姿を目撃します。しかし、誰も、またその所有者たる家人も、その無作法を咎めることはあっても、水そのものを盗ったことは咎めないのです。
その時に、松下さんの脳裏を閃光が走ります。そうだ。「いいものを、安く、たくさん」という考えは、水道の水と同じではないか。盗水しても、咎められないのは、水道水に価値があるにもかかわらず、その量があまりに豊富だからである。生産者の使命は、貧をなくすために、貴重なる生活物資を水道の水のごとく無尽蔵たらしめることにある。

③イチから造るという発想で、やってみよう

1961年頃、松下通信工業は、トヨタのカーラジオを製造していた。
ある日、トヨタから20%の値引きの申し入れがある。当時トヨタは貿易の自由化に直面し、アメリカなど海外メーカーに太刀打ちするために価格競争にさらされていたからだ。
しかし、3%しか利益がないのに、トヨタからの20%引きの要望を受ければ大変な赤字になってしまう。

「確かに、トヨタさんが要求する値引きは、かなり厳しいな。けど、将来の日本の自動車産業の姿を考えると、国際競争に勝たなければならん。これは一人トヨタさんだけの問題ではないと、わしは思うんや。これは日本のためや。お国のためや。この際、トヨタさんの言うことを、そのまま聞こうやないか」

「出来んと言えば、それまでや。うちも成り立っていかないし、トヨタさんも成り立っていかん。それでは日本の国も成り立っていかないことになる。国民のためにもならんということや。ここは、きみたちも苦しい、しんどいと思うけど、一企業という立場ではなく、国家のことを考えて、発想を変えて、白紙に戻って、これに取り組んでくれんか」

「そこで、皆に頼みたいことは、まったく新しいカーラジオを一から造るという発想でやってみてくれや。いままでの製品を並べてどこをどう削るか検討しているようやけどな。全部片付けてくれや。ゼロから、トヨタさんの値段の商品を値段を落とさず、造ろうと考えようやないか。皆、考えてくれるか」

こうして、性能を落とさずにゼロベースでカーラジオを造り上げた。しかも、トヨタの要望する20%安くした値段でありながら、10%の利益の出る製品となった。

まとめ

著者の江口氏は、23年間ほとんど休日も朝夜も関係なく松下氏の間近で過ごし、
年間休みが20日間ほどという時期も15年ほどあったそうです。

松下幸之助から電話が夜中の1時、2時にがかかってくることもあれば、早朝4時、5時に「いまから来い」と言われてあたふたすることもあったそうです。
しかし不思議と嫌な気持ちになることはなかったそうです。むしろ真夜中に電話でその声を聞いた瞬間、パッと明るくなるような温かな感動を覚えたそうです。

また、松下氏からどんなに激しく叱責されても、「松下さんは優しい人だ」という印象は23年間、変わることはなかったそうです。それは突き詰めれば、松下氏が「公の人」、つまり私欲よりも会社のために尽くす、社会のために尽くす、という思いが、そばにいて感じとれたからだそうです。

松下氏は、「人間は偉大な存在だ」という「人間観」を持っていましたが、それは、人間は良いとか悪いとかではなく、相当な力を持った、万物の王として、責任のある行動をしなければならない、という戒めのようなものでした。

息を引き取る寸前、松下記念病院の院長が、
「痰をとるために、これから管を入れます。すみませんが、ちょっとご辛抱お願いします」
と言うと、

松下幸之助はベッドの上で、
「いや、お願いするのは、こちらです」
と答えたそうです。

この言葉が最期の言葉になりましたが、松下氏の他者への敬意を象徴しています。

天才でもエリートでもなく、出自にも健康にも恵まれていなかった松下幸之助が、どうして日本を代表する経営者になれたのか、つきつめれば多くの優秀な人材が、松下幸之助についていこうとなったのか、その人間的魅力の根源が書かれた一冊でした。

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